2006年がスタートしました。 読書工房も今年の4月で満2歳になります。 おかげさまでまだしばらくの間は航海を続けられそう・・・。 昨年の春くらいから東京大学先端科学技術研究センター・バリアフリープロジェクトの先生方と一緒に、小中学生向けの本づくりに取り組んでいる。春までには形にしなければいけないのだが、まだ突貫工事のまっ最中という感じ。まるで一昨年のアテネ五輪スタジアムや昨年の仙台宮城球場(現・フルキャストスタジアム宮城)のようである。本当に間に合うのか? バリアフリー・プロジェクトの先生方がよく使われる言葉に「バリア・センシティビティ」がある。バリアに対する感受性といった意味で、これはいわゆる「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」の取り組みの中で、さまざまな立場の当事者(障害者だけではなく、高齢者だったり、妊婦さんだったり、ベビーカーで子どもを連れている人、外国人といったさまざまな当事者がいる)の意見を聞く、あるいは一緒に考えることは当然なのだが、たとえばその時に意見を聞いた当事者の人が同じ立場に立つ他の当事者のニーズを的確に把握しているとは限らないし、もしかすると、その障害をもっていないけれども、その障害をもつさまざまな人と交流している人のほうが、よくニーズを把握している場合もある。 つまり、障害当事者か非障害当事者か(「健常者」という言い方もあるがあまり良い言葉と思わない)だけで単純に分けてしまうのではなく、もう一つの軸として、バリアに対する感受性の高さを設定しているのが面白い。 これは、「バリアフリー」以外でも、何か専門性をもった議論をするときに有効なような気がする。 とくに何らかの「圧迫感」を与えがちな場面では、それを緩和する役割を果たすのではないか。 とかく障害の問題は、「当事者性」だけが前面に出がちで、非障害当事者は意見を表明しにくい雰囲気に追い込まれる場面に遭遇することがある。本当に特定の障害当事者の意見を「お伺いする」だけでよいのだろうか。 逆に「出版」がテーマになった議論の場では、いつも生産者(著者&出版社)対消費者(読者)という図式になってしまって、生産者の論理(あるいは言い訳? 泣き言?)をひたすら「お伺いする」ことで終わってしまいがちだ。 誤解されぬよう付け加えますが、バリアフリーやユニバーサルデザインを議論する場面で、複数のさまざまな立場の当事者が参加することは最低条件として必要です。そのうえで、一方的な議論に終始しないように、障害当事者・非当事者、出版当事者・非当事者に関わらず、バリアや出版に関するセンシティビティを高めていくためには、どんな取り組みが必要なのだろうか? 2006年のメジローは、このことを強く意識してみたいと思います。
by mejiroh
| 2006-01-03 21:41
| メジローが行く!
|
ファン申請 |
||